なんかのレポートをはりつけ(弟) | 我らFifthRovers

なんかのレポートをはりつけ(弟)

ついこないだ、塾の帰国子女の小六の教え子とたわいもない喧嘩ごっこをした。彼は英検1級をもってると自慢してきた。すこし負けた気がしたので、いじわるをしようと思い「携帯はもってるか」ときいた。彼はまた持っていると答えた。まあ塾通いだしそうだよなあと思いつつ、いじわるの本能はさらに突き進んだ。「じゃあパソコンもってるか(どうせもってないだろ?)」ときいたら、彼はまた持っていると答えた。業を煮やした振りをした自分はついに最終兵器を使った。「iPodもってるか?(勝利を確信しながら)」、相手は悲しそうにもってないと答えた。勝った!と微妙に満足げな自分の精神年齢の低さに驚くと同時に、つくづくパソコンが小学生にまで広まっていることに驚いた。今回はこのパソコンの利用の目的として、一番利用度の高いインターネットについて語りたいと思う。マーケット的にもインターネットはメディアとして、近い将来全世代をカバーするようになるであろうから。

 インターネットをどんなメディアだ?と定義づけるときに王道となる言い方は「インタラクティブメディア」といったものである。情報の媒体として送り手と受けてが相互にコミュニケーションができることを可能としたといった機能をもっている。参加型コミュニケーションともいわれ、今はなき「村上春樹堂」なんかではメールを通じた作者と読者のコミュニケーションが頻繁に行われていた(メールをしたら必ず返事がかえってくるのがうりであった。少年カフカといった本に詳しくのっています。)。また岩井俊二の「リリィシュシュのすべて」という映画は、岩井俊二が実際に「リリィホリック」というサイトをたちあげ、その中のBBSの発言などから実際に映画で度々流れるBBSの論争シーンが生まれたという。こうしたインタラクティブはいわゆる企業(有名人)対個人のコミニュケーション的な捉え方である。しかしながらインターネットは自らが送り手として変身することができるわけで、こうしたブログもその一部であるといえる。もちろんこうした情報発信もある程度、相手のレスポンスを期待しているからこそインタラクティブの一分野である。自己情報発信型と定義つけることができる。

 こうした個人の情報発信者がふえたり、また繋がりやコミュニティを形成するようになると多面的な情報が次々と結びつきネットワーク化される。このネットワーク化(リンクとリンクの結びつき)が日々のインターネットを利用する人が行う「検索」といった行為に反映される(google のロボットはタグをたどって巡回するから)。インターネットには雑多な情報が氾濫しているが、検索という行為ひとつでスマートにカテゴライズされる。ここでいう「雑多性」と「カテゴライズ」は従来のメディアではなかなか共存しえなかったことである。ことにイデオロギーの部分においての「雑多性」は世界中の大手マスコミにおよんでも太刀打ちできないであろう。この「イデオロギーの多様性」と「「カテゴライズの容易さ」が次に説明する「インターネットの既存メディアへの受け皿的役割」をはたすにいたる。

 私がインターネットに対して提唱するインタラクティブの次の機能は「既存メディアの受け皿」としての機能である。この機能を説明する前に知っておきたいことがある。デカルトの「すべての思う人の考えの妥協点が真実である。」(方法序説)という考え方である。ここでいう妥協はネガティブというよりは積極的な意味で捉えて欲しい。経済学的に言えば需要者と供給者の主張に基づく均衡論理と同じである。需要者にとって安いものがとにかく正である(例外はある。)が結局は均衡が真実となる。株価のランダムウォークだってそうだ。売る側と買う側両方向の意図の違いがあるから波が生まれる。株の世界では反発と呼ばれる。この反発こそがフォーカスすべき現象である。人間の心理の世界では反抗とも言う、人間にみな反抗期があるように反抗心は人間がみなもっている性質であるといえる(程度の違いはあるかも)。この反抗期だが、いつ起こるかといえば精神的に肉体的に大人に近づきつつある時期におこる。これは反抗相手に十分対抗できると認識できた時期といえる。つまりツール(肉体・頭脳)を使いこなし、これまでの過度なしつけ(継続的な同一作用)を受け皿(親・大人)に対して反発させる作用と言い換えることができる。このようなしつけ、反抗を繰り返し真実に近い自分を探し続けるのが反抗期であると思う。挫折と成功の繰り返しにも似ているかもしれない。このような反発心は人間みな抱えているものであり、もしメディアが同一のイデオロギーや戦略で繰り返し報道、広告を続けた時、それがいかなる正論であろうと(むしろ正論であったほうが)、その作用が蓄積され反発の力が同時に蓄積されてもいる。ある人は反発というよりは刺激に麻痺し、ある人は反発する。麻痺している人にも、ツールやきっかけさえあれば反発に動く。今そのツールがある、インターネットだ。反発の受け皿だ。すべてのイデオロギーが承認されている、検索すればすぐに自分と同じ意見(カテゴリ)のものがみつかる。今のメディアや広告は人間の刺激の麻痺と反発心に対して、インフルエンザのウィルスのように毎年毎日新しい意見と戦略をねりすすんでいる。冒頭の自分と教え子みたいでもある。

 最近全世界的に右傾化がすすんでいるといわれる。ネオコンやら中国の国粋主義やら形は様々であるが、ちょうど日本でも東京都知事が石原慎太郎になったように右傾化がすすんでいる。私の持論的にはこれまでが全世界的に左傾化しすぎただけだと思っている。情報の多様化が進み、インターネットで同意見のものを見つけることができた今だからこそ左に対する左として右がでてきたとも言える。そこまでいくと極端かなー。

まあ今一番いいたいことはこのブログは
いったい制限時間を設けてなんの意味があるのかと
一回書いた記事が消えることはカスタマーにとって
最もいやなことを理解してないのかと